コーラスアンサンブル ロゼ
呼子町内の歌碑・銅像・記念碑など
※城谷ルリ子氏「呼子の町を知ろう」の情報を元に再構成させていただきました。
情報の追加・訂正は随時行います。
小友祇園祭 モニュメント
場所:呼子町小友1276
小友祇園祭は「海渡る山笠」として有名な小友地区の夏祭りです。(以下小友祇園祭HPより)
「1658年(万治元年)に大流行したコレラの悪疫退散を祈願するため、笠竹に御幣を付けて村内を御祓いして廻ったことが起源だと伝えられています。現在では地区の入り口に鎮座する八坂神社の夏祭りとして旧暦の6月14日・15日の大潮の日に祭事が行われています。高さ15メートル 重さ3トンの絢爛豪華な山笠を担いで村内を練歩き、全国的にも珍しい「海のお渡り」で知られている勇壮なお祭りです。」
祭りの案内板に「鉦早し いま海に入る 祇園山車」の句が添えられている。
また海岸線の転落防止柵は呼子大綱引の様子を模したもので呼子大綱引の案内板も添えられている。
呼子大仏
場所:呼子町呼子1413 尾ノ上公園内
大正11年はコンクリート建築が一般的ではなく極めて初期ということで、現存するコンクリート製大仏としては、日本最古との指摘もある。海難救済と海で亡くなった人々の慰霊のために建立。
阿弥陀如来像の印相は親指と人差し指で結ばれた部分がハートの形に見えることから縁結びの仏様とも。
津田治子 歌碑
場所:呼子町呼子1413 尾ノ上公園内
苦しみの
きはまるときに
しあはせの
きはまるらしも
かたじけなけれ
津田治子
明治45年、呼子町で生まれた津田治子(本名:鶴田ハルコ)は、18歳のときにハンセン病の宣告をうけるが、病とたたかいながら短歌を歌い続けた。「檜の影短歌会」、短歌結社「アララギ」に所属。昭和30年1月、717首を収めた『津田治子歌集』を出版。昭和38年6月、癌性腹膜炎を煩い、同年9月30日、51歳でその生涯を終えた。
歌碑は昭和59年に呼子短歌会の歌人・久住滋巍(ひさずみしげき)氏を中心に有志からの寄付で建立された。
上記の歌碑左に寄り添うように「歌人 津田治子 略年譜」がある。呼子での出生から歌人としての略歴とともに上記の歌を含む3首の短歌が記されている。
「父の郷 わが生れたる 松浦郡 呼子の町が 見えて恋しき」
「現身に ヨブの終りの 倖は あらずともよし しのびてゆかな」
「苦しみの きはまるときに しあはせの きはまるらしも かたじけなけれ」
吉井 勇 歌碑
場所:呼子町呼子1413 尾ノ上公園内
風なきに
呼子の瀬戸の
うつ潮は
とゝろとゝろと
鳴りやますけり 吉井 勇
歌人・劇作家。東京生まれ。早大中退。北原白秋・木下杢太郎らと「スバル」を創刊。情熱的・耽美的な歌風で、特に祇園の歌は有名。歌集「酒ほがひ」、戯曲集「午後三時」「俳諧亭句楽」など。(『広辞苑』)
唐津市呼子町、尾の上公園にある歌碑には、吉井勇の次の碑文が添えられている。「呼子は古くより海外への要衝の地として歴史的に伝説頗る多し。予は明治四十年与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎等とともにこの地に遊びしが、更に五十余年を経て昭和三十四年再訪する機縁を得たり。そぞろに懐旧の情に堪えず歌心の動くままに数首を詠ぜしところ、この町の有志の人々その一首を石に刻みて長くこの地に残さむとす。即ち感慨を述べて一文を草す。」(『呼子町史』S53)
鯨鯢千本供養塔
場所:呼子町呼子1747-1 龍昌院内
海岸道路の案内石柱
解説板より
「鯨鯢供養塔・鯨鯢千本供養塔
捕鯨に携わった人々は鯨への感謝の念を忘れることなく、鯨の供養も欠かさず行ってきた。
現存する鯨鯢供養塔は、正徳四年(1714)に創建した松尾好太夫の百年忌にあたり、損壊がはなはだしかった塔を曾孫の松尾甚六が自らの八十八才の祝いの意味も含め、文化十年(1813)に再建したものである。
総高:192cm
鯨鯢千本供養塔は、天保二年(1831)中尾七代甚六(中尾雄之助)の時、創業以来の捕獲頭数が千頭に達したので供養のために建立したものである。
総高:128cm」
棟方志功「呼子の柵」 モニュメント
場所:呼子町呼子1413 海岸通り
棟方志功は青森県出身の世界的に著名な版画家。「呼子の柵」は昭和46年の安川電機カレンダーとして作られた版画の中の一点。
北部九州一円を周った写生旅行時に金丸旅館に宿泊し、その際この場所から見た海側の恵比寿石祠をモチーフにしている。このモニュメントは唐津ライオンズクラブ結成40周年記念事業として平成14年に竣工された。
親子鯨 銅像
場所:呼子町呼子1413 鯨組主中尾家屋敷内
呼子の捕鯨の歴史を語るモニュメントとして加部島の田島神社境内、呼子町観光物産館に設置されていた。後年、同じ目的でより大規模な施設の鯨組主中尾家屋敷へ移設。海岸通りでの鯨組中尾家屋敷の顔となっている。
芭蕉 句碑
場所:呼子町呼子3149 呼子天満宮内
夕がほや
秋はいろいろの
瓢(ふくべ)かな
芭蕉
天満宮の句碑建立の時期は不明。一説に、芭蕉十哲の一人河合曽良が芭蕉没後、幕府の西海道巡検使として、呼子から壱岐に渡り(1709)壱岐勝本町で病没(1710)したと伝えられるため、句碑建立に何らかの関わりがあるのではないかといわれている。(旧呼子町史より) これには異説があり、芭蕉十哲の志太野坡(しだやば)と向井去来(きょらい)が九州各地に芭蕉塚を建てたと伝えられていることから、2、3日しか呼子に滞在しなかった曽良よりも確実性があるという(金子政則氏)
天満宮は1740年2代中尾甚六が屋敷の鬼門守護として勧請されたものなので、曽良が碑を建てたとなると天満宮が出来る前にすでに碑があったことになる。又、志太野坡(しだやば)(1662~1740)、向井去来(きょらい)(1651~1704)にしても同様のことがいえる。
鯨組主中尾家屋敷付近の案内石柱
北原白秋 歌碑
場所:呼子町呼子3751 私有地内
蒼海の
鯨の蕪骨
醸み酒の
しぼりの粕に
浸でし嘉しとす
北原白秋
現在、山田整形外科クリニックが入っている建物は、平成3年(1991)松浦漬3代目山下善市氏が私設美術館尚古館として建てたもの。この歌碑もその時に建立され、後年現在地に移された。
初代善市氏と親交の深かった北原白秋の直筆の書が、山下家には残されている。又、白秋の紀行文である「フレップトリップ」の中にも善市、善敏親子の事が、呼子の王様として紹介されている。
辻畑隆子「風、間問う」 銅像
場所:呼子町呼子3751 私有地内
北原白秋の歌碑と並んで置かれている。以下台座記文より
1990日展出品委属 コメント「生きる時間は確かにそこに在って無い風なのかも知れない―。時を風に、風に間を例えるなら、もう2度と来ないであろう一瞬々々を自分なりの感動風で表現できればと思う。」set up 1991.4
金丸るり 句碑
場所:呼子町呼子3764−50 朝市広場
半生を
朝市に立ち
頬被り
金丸るり
句のモデルは、呼子朝市に半世紀以上出店し、「朝市のみっちゃん」として親しまれた川嵜ミツ子さん。
唐津・呼子イカ検定 モニュメント (合格者記念碑)
場所:呼子町呼子3764−50 朝市広場
『唐津・呼子イカ検定』 のマスター試験合格者の氏名を記した記念碑です。唐津市の観光・歴史・文化に関するさまざまな知識やイカに関する問題・食に関する問題などの知識を問うご当地検定です。福岡、久留米など、遠くは東京都の合格者も見えます。
北原白秋 歌碑
場所:呼子町殿ノ浦797−1 ひばりが丘公園内
麦の秋に
白帆見わたす
山幾重
君が館は
伊達の陣跡
北原白秋
ひばりが丘公園は、松浦漬本舗山下家の西ノ山の別荘地として整備され、一般に開放されていました。ツツジや山桜など、丹誠を込めた花木を春秋に楽しむことができ、長い間地域の人々にも愛されてきました。
白秋は、大正十三年(一九二四年)、樺太旅行で知り合った山下善敏氏と親交を深め、五年後の昭和四年に呼子町を訪れています。滞在の四日間、豊臣秀吉ゆかりの名護屋城址や伊達政宗陣跡に近いひばりが丘の別荘に遊んだ白秋は、この歌をはじめ水光呼子の情景を詠み、「唐津小唄」や「玄海雑曲」などの詩情あふれる作品を多く残しました。
森本峯夫 歌碑
場所:呼子町殿ノ浦1951 呼子大橋南詰駐車場
古津江なる
永久に凛々しく
美しく
あらむとぞ想う
呼子架け橋
森本峯夫
森本峯夫は、平成元年架橋の呼子大橋を設計。工学博士。
呼子大橋は平成元年に開通。橋げたがプレストレストコンクリート製の斜張橋としては日本で最大。前長728m、呼子本土と加部島をつないでいる。「新さが百景」の第1位に選出された。
佐藤佐太郎 歌碑
場所:呼子町殿ノ浦1951 呼子大橋南詰駐車場
島近き
海しずかにて
雨あとの
朝の道きよし
呼子の町は
佐藤佐太郎
佐藤佐太郎・・・斎藤茂吉に師事し、アララギの新鋭として注目を浴びた。昭和51年には「昭和万葉集」の選者にもなる。久住滋巍(しげき)氏は佐藤佐太郎主宰の「歩道」同人で、個人的にも親密な付合いがあった。その縁から佐太郎は晩年たびたび呼子を訪れている。平成4年(1992)建立。
松浦佐用姫 銅像
場所:呼子町加部島3279-1 風が見える丘公園内
佐用姫伝説では加部島で領巾を振るのは天童岳(田島岳)となっていて、天童岳には昭和8年制作の陶像が設置されている。天童岳は気軽に登れる場所ではないので観光客へのアピールとして、車で来れる展望台である「風が見える丘公園」内にも銅像が設置されている。
平成元年三月 成富宏 氏制作 成富宏氏は佐賀大学名誉教授で彫刻家。2020年に日展特別会員となっている。
杉浦翠子 歌碑
場所:呼子町加部島3965−1 田島神社境内
遠くゆく
つまに別れの
領巾を振る
その立姿
美しかりけむ
杉浦翠子
杉浦翠子は明治24年(1891)生まれ。大正5年に斎藤茂吉に師事し、「アララギ」の同人として活躍。短歌にかける情熱は、世間に「激情の歌人」と言わしめた。佐用姫の歌を幻想的に詠み、呼子を訪ねることを望んでいたがかなわず、昭和35年(1960)亡くなった。没後、門下の月尾菅子が歌碑を昭和41年(1966)に建立。
万葉集 巻五 八七四 歌碑
場所:呼子町加部島3965−1 田島神社境内
海原の
沖ゆく船を
帰れとか
領巾ふ羅しけむ
松浦佐用姫
(万葉集 巻五 八七四)
万葉集に載る松浦佐用姫にちなんだ歌の一首。神亀3年(726)に筑前守として赴任した山上憶良の作と考えられている。万葉集研究の第一人者佐々木信綱揮毫による歌碑建設の経緯については、当時の落合勝郎町長の一文が碑裏に記されている。
松浦佐用姫 陶像
場所:呼子町加部島 天童岳山頂
天童岳の佐用姫陶像は、かなり急な荒れた坂道を登るので観光目的ではおすすめできないが、佐用姫に興味のある方には良いかも知れない。作者は中野霓林。唐津焼で大きな細工物を得意とする陶芸家で、霓林の名は現在も踏襲されている。鏡山の佐用姫陶像(昭和9年)とペアで作成・設置(制作昭和8年・設置昭和10年)されているが、その表情は全くの別物。狼狽し狂気に満ちている鏡山の佐用姫に対して、天童岳の佐用姫は童顔で内に秘めた悲しさを漂わせている。
鯨鯢供養塔
場所:佐賀県唐津市呼子町小川島202-1
捕鯨の島・小川島を確認できる石仏。以下説明板より「観音堂の境内にある鯨の供養塔(文久三・1863)で高さ0.7メートル。舟型光背を持つ石像地蔵尊で、佐賀県重要有形民俗文化財(昭和49)に指定されています。」